どうして私の動画は福祉系の内容が多いのか

現在私はYouTubeとニコニコ動画に”生活”関連の動画を投稿しております。

まあ、結構さぼりまくっておりますが……

その中でも障害福祉だったり、生活保護だったりと福祉系の動画が多くなっています。

なぜかというと、私自身の経験によるところがあります。

以前の仕事でメンタルを壊してしまい長期間福祉制度のお世話になったことから、これらの制度をもっと知ってほしい、という思いが強い部分があります。

障碍者向けの就労支援だったり、傷病により休みを取らざるを得なくなった場合の傷病手当金だったりといろいろな物を利用することになりました。

生活保護については利用したことは無いのですが、保護受給者と接する機会もあり、題材として取り上げることがある、と言った感じです。

そこで今回は、私がメンタルを崩してからどのような暮らしをしていたかの振り返りを書いていってみようかと思います。
正直、復帰に伴い環境に恵まれた部分が多いため、参考になる人は限られてくるかもしれません。
ですが、1つの例として書き残したいと思います。

2010年、私は工業大学を卒業し、地元の建設業界に就職しました。
まずこの選択が恐らく間違いだったのでしょう。
当時の私は考えが甘く、中小ではあるが、それなりに大手の企業から出資を受けていて安定している、というその言葉にまんまと載せられて、そこで就職活動をやめてしまいました。
他にも採用試験を受けていた人が何人かいたにも関わらず、面接の時点で今承諾してくれれば入社確定だよ、みたいなことを言われたので、その時点で怪しいと思うべきでした。
ただ、当時はリーマンショックの後でようやく景気が落ち着いてきた頃で、他の企業に入ることができるのか判断が難しく、また勉強不足の私は大学の成績もイマイチで、推薦も期待できない状況で焦ってそこに決めてしまいました。
まあ、結果としてその年はそれなりに就職はしやすい年として扱われることになったので、この判断は完全に失敗でした、が後の祭りです。

そして、その後は大学を卒業してその会社で働くことになるのですが、研修の時点では外部の研修が根性論的でアレなことを除けばそこまで大きな問題はありませんでした。
しかし、配属をされた部門、ここから違和感を感じ始めます。
あまりにも価値観の違う社員たちや下請け常駐の作業者たち……
なんとか環境に慣れていこうと食らいつきましたが、初見のミスなどに対しても厳しかったり、トラブルがあった場合のリスクも非常に大きな仕事が多く、特定の時期になると取引先工場の定期修理の仕事がありかなりの残業が発生したりと、徐々にすり減っていたのでしょう。
しかし、途中転職を考えたりしながらも直接の指導担当の先輩はいい人だったこともあり、なんやかんやでその仕事を続けていました。
しかしある時、別の部署から応援の依頼が入ります。
で、わずかな期間の応援だったのですが、その部署のトップがかなりのパワハラ体質、長時間労働の強要、追い詰めるような叱責、人格否定、相手によっては物を投げるような暴力などひどいものでした。
早朝から深夜までの労働で判断力が低下したところでミスをしてそこから叱責、といったコンボが常態化していました。
しかしその部門は売り上げは社内でもトップクラスであり、総務部がある本社と同じ建物に部署を構えているにも関わらずブラック環境が黙認されていました。
その短い応援期間はなんとか終えていつもの業務に戻りましたが、正直かなり消耗しました。

なんせ毎日のように朝5時に家を出て会社を出るのは11時以降、みたいな生活が2週間以上続きましたので……しかも上記の上司の元で……

さらにその少し後に、普段担当している工場の定期修理期間もあり回復する間もなくすり減っていきます。
そしてこのタイミングで部署の統合という話が入ってきます。
その統合先は……例の応援先の部署でした。
あの部署と統合される……?私のメンタルは一気にもっていかれました。
人事などにも相談しましたが、とりあえずその部門の中でやってみてから判断してみよう、くらいの回答しかありませんでした。
結果として部門は統合され、私もそちらの部署の所属になりました。
結局自分の現場を抱えながら、もともとその部門が持っていた現場の応援をしなければならず、売り上げに対する上司からのプレッシャーも強く、一気に病んでいくことになります。
本来1時間で終わるような仕事に1日かかってしまうようになってきて、考えもまとまらなくなり、常に脳内は混乱している状態でどうしようもないと思い病院に駆け込みました。
近くに予約なしでも診てもらえるという精神科があったのでそこに飛び込んだのです。(近くといっても車で1時間以上かかる)
重い症状の人からすれば自分で病院という選択を取れる時点で大したことはないと思われるかもしれませんが、当時の自分としてはいっぱいいっぱいでした。
結果としては適応障害と診断されました。
その後うつ病と診断は変わりました。後で知った情報ですが、最初の診察ではうつ病とは診断されず、とりあえず適応障害と診断する場合は結構あるそうです。
医師でもそのあたりの判断は簡単ではないようです。
一定期間の休養を取るように、との診断書と薬を処方されました。
その日の夜薬を飲み、次の日起きるといつもよりは気持ちが安定しているように感じました。
しかし、やはりもう働くのは厳しいと感じたので診断書を職場に提出して長期の休職期間に突入しました。

休職期間について


最初は2週間の療養、という形で診断書を書いてもらいましたが、当然2週間で良くなるわけもなく、1~3か月ずつ診断書を出してもらい、延長していき、最終的には1年間休職しました。
休職期間は傷病手当金を受け取っていました。
傷病手当金は、社会保険に加入している者が業務上の原因以外の傷病を抱えてしまい働けなくなった場合に給料の6割程度の給付を受けられる制度です。そのままその仕事をやめても決められた期間の間は継続して受け取ることもできます。
正直この制度にはかなり助けられました。
これがなかったら当時500万以上あった貯蓄は消滅して、親に完全に支援してもらうか生活保護に頼るか、しかない状況になっていたでしょう。
休み始めたばかりの頃は食事と風呂と通院以外はほとんど布団の上でずっと過ごしていました。実家暮らしで家族もある程度理解はしてくれていたのが救いでした。
好きなゲームを起動しても特に何もせず放置、何かをしようという意思はあまり沸いてきませんでした。
2~3か月休むと少しずつ趣味などもできるようになってきました。
ですが、新しいことを始めてみても続かないことが多かったです。
無駄に趣味の道具ばかり増えてしまい、かなり浪費をしてしまった気がします。
1年ほど休みを取り、就業規則上これ以上連続して休職はできないので復職プログラムを使い徐々に復帰するように促されます。
仕方なく、復帰しますが、なんというか扱いの難しい存在となってしまいました。
親会社が大きい会社なのでシステムだけは立派なのですが、結局中小企業なので従業員はそれについていけておらず、仮で在籍することになった部署ではお荷物状態。先輩社員の方々は良くしてくれたのですが、部門のトップがリスクを恐れてある程度以上の仕事は任せられないとの判断をされて、事務所で勉強するだけの日々が続きます。
しかし、上層部としてはお金を生み出さず、給料だけ発生する私をそのままにはしておきたくなかったのか、遠くの地方への転勤を勧められます。
一応断ることもできましたが、当時の私は遠くに行って環境が変われば自分も変わるかも?とその転勤を承諾してしまいます。
結果からいうと、この転勤は受けるべきではなかったでしょう。
せめて、通院が不要になるまではじっくりと地元で様子を見るべきでした。
人事の言い分としては、その転勤先での業務の方が、私が休職前にしていた内容に近いので、とのことでしたが、実際のところは大きな工事があったが人手が足りないのでほとんど何もしていない私をそこに送り込みたかった、というのが実情だったのだと思います。
そして私は年初という妙なタイミングで転勤することになりました。

関東編


転勤先は千葉、茨城の工業地帯でした。
実は、過去に出張でその部門の人たちとは仕事をしたことがあり、なんとかなるだろうと思っていました。
しかし、応援での一時的な仕事と、その部署に常駐しての仕事では全く違うものでした。
その部署に入って割とすぐに担当工場の定期修理があったのですが、客先の担当者がかなり厳しいタイプの人でした。
工事については、私が転勤する前から準備が進んでおり、すでに工事業者は選定済みでした。その業者は大きな工場の中での作業はほとんど経験がないという人たちでした。
値段が安く、自信満々でいける、というので仕事をお願いしたみたいですが、蓋を開けてみれば、自社の工場への持ち込み整備がメインの会社のようで、現場の作業ではアレはできない、コレもできないの繰り返しでした。
そして技術面でもレベルが高いとは言えず、作業はグダグダ、遅い作業速度を補うために毎日のようにおそくまで残業……作業の遅れやトラブルで怒られるのは作業員ではなく監督者の私……
こんな状況が2か月ほど続きます。作業が終了したあとも報告書の提出などがありバタバタ……
その後多少は落ち着くのですが、次に発生する問題、応援の時には気づかなかった、転勤先の部署の人たちの悪い部分でした。
多少セーブはしているのかもしれませんが、下請け企業からの引き抜き組の人たちが多く、失礼な言い方をすればあまりいい教育を受けてこなかったであろう人たちが何人かいました。おそらく元ヤンとかでしょうか……
正直、業界的に昔はやんちゃしていた人たちが多いというのは理解していました。いや、理解したつもりになっていました。
彼らはあまりにも考え方、行動基準が違いました。
私は成績こそ悪かったですが地方の進学校出身であり、そういった人たちとは交流した経験も浅く、どう向き合っていくべきかもわからずに振り回されてしまいました。
その後はハードな仕事はあまりなかったのですが、徐々に再び病んでいって、家から出られなくなってしまいました。
そして再び休職をし、そのまま復帰できずに退職し実家に帰ることになりました。こうして約10年で建設業と別れを告げることになりました。

リハビリ編


さて、退職をした私は三重の実家に帰ることになりました。
ちょうどコロナウィルスが流行し始めたころで、あと少し遅かったら帰れなくなるところでした。(笑)
そして実家に帰ってしばらくは充電期間となりました。
やっぱり何かをしようという気力はおきません。両親から何かしらの提案をされてもなかなか行動できず、部屋からあまり出ないで過ごしていました。
まあ、もともとあまり部屋を出ないタイプではありますが(笑)


ただ、数か月たつと徐々に何かをしようかな?という気力が出てきました。
その時に病院で紹介された精神科デイケアを利用することにしました。
精神科デイケアは、精神疾患や生まれつきの精神的な障害や特性を抱える人たちが社会活動をしていくための準備をする施設です。
県庁所在地などの大きい町の大きい病院に併設されている場合が多いです。
この内容だけ見ると、少し怖い印象を受けるかもしれません。
しかし、実際に行ってみるとかなりほのぼのとした環境で、傷ついたメンタルを癒すためには最善といえる環境でした。ほかの利用者の人たちも、ほとんどがおとなしい人たちで、世間がイメージする怖い精神科のイメージとは異なるものでした。
まあ、症状が重い人たちは別の病棟で治療しているため、そういった部分は見えなかっただけなのかもしれませんが……

そして簡単な作業やレクリエーション、ほかの利用者の方との交流を経て徐々に回復していきます。
似たような経験をしてきた人たちも多くて話の合う仲間もできました。
正直、精神を病んでしまう原因の一つとして、話の合う仲間がいない、というのはあると思います。
周りと自分が違いすぎること、というのはかなり精神へのダメージが大きいと感じます。
なのでここでの出会いは結果として大きなプラスになったと思います。
しかし、そう考えると、仕事選びは待遇だけでなく、従業員がどんな価値観で行動しているのか、というのもかなり重要なのかもしれません。
そうして治療していく中で、就労移行支援という福祉事業を知ることになります。
障害を抱えている人が就職を目標に訓練をうけることができる施設です。
当時の状況でそのまま就職活動をしたとしても、採用されるのはかなり難しいと感じていたので、そのサービスを利用することにしてみました。
私が通所することにした事業所は、PC作業のスキルを付けることをメインにした場所でした。
ぶっちゃけ私は基礎的なPCスキルは持っていたのでスキルアップという意味ではあまり大きな影響はなかったかもしれません。
しかし、家にいるよりも集中しやすい環境、個人では高額で購入が難しいソフトの学習、就職活動のサポート、などメリットは多かったと思います。

社会復帰へ……


就労支援施設での半年と少しの通所のあとに、県の教育委員会に関わる仕事の障害枠での就職が決まります。
障害枠のため、正直収入はかなり少なかったのですが、リハビリとしては丁度良かったでしょう。
仕事の内容としては学校施設の事務作業+用務員といった感じでした。

障害枠は、ある程度の病気に対する配慮をしてもらいつつ働くことができます。

ちなみに、ある程度の規模を超える企業や自治体には一定割合の障害者を雇用する義務があります。
そのため、選り好みしなければ少しくらいの障害があったとしても意外と選択肢はあったりします。
中には知識の少ない障害者を不当に扱うような企業も存在しますが、障害者雇用でそういったことをするのは本来許されません。
なので不当に扱われたとしても、しっかり障がい福祉課やハローワークに相談することで問題の解決のため協力してもらうことが可能です。

学校施設というとハードなイメージがありますが、それは常勤の先生達だけで、非常勤の人は健常者の方も含めてそこまで負担は大きくない場合が多いです。
定時で帰れるし、休みもしっかりとれます。
また、先生達は常識的な考え方の人が多く、無理難題を押し付けてくるような人も少なくかなり働きやすい環境でした。
まあ、これについては私が学校配属ガチャの当たりを引いただけなのかもしれませんが……

そして、学校で働きながら、障害者向けの就労サポートを受けている中で、ある考えを持つようになりました。
「自分も支援する側として働けるのではないか?」
そこで就労支援の仕事を探し始めます。
すると、意外と私の得意とするPCスキルを求める求人がちらほらあります。
職種的に、電子機器が苦手な人が多いようで、そういった人手が不足しているのかもしれません。
そして、編集作業などの指導員として、隣の市の就労支援施設に就職し、無事に社会復帰をすることができました。

正直、年齢に対して収入が少なく、世間一般で見れば負け組に該当するかもしれません。
ですが、働いて給料を貰って生活できている、それだけで充分ではないでしょうか?
今は本業で稼げないなら副業という選択肢もあります。
幸い現在の職場はかなり緩く、副業に手を出しやすい環境なので、現在はどのような副業が自分にできるのかを模索しているところです。
少なくとも、精神疾患になる前の仕事をしていたときよりも気持ちは前向きです。
どれほど収入があったとしても、心の余裕が持てないとどんどん精神をやられていきます。
ある程度心の余裕があることで、何か嫌なことがあっても早めに切り替えられます。結果として多少収入は少なくても負担は少なくなるのは間違いないと思います。
生活に困窮するレベルの低収入だと心の余裕を持つことは不可能になってしまうので、限度はありますが……

あとは、長いリハビリ期間の中で、少しずつ考え方を変えられたことも大きいかもしれません。
世間の”当たり前”を気にしすぎると生きづらくなります。
私も以前は”当たり前”であることを気にしすぎていました。
現在はSNSなどの影響で多くの成功者の様子を見ることができるせいもあり、”当たり前”のハードルも高くなっています。
そのため、無理に”当たり前”を求めようとしない心構えを持ち、自分がしたいことを優先していくことが大切だと思います。
もちろん、人に迷惑をかけるような自己中心的な行動はよくありませんが、誰にも迷惑をかけないのなら好きなことをしていてもいいはずです。
いきなり人からどう見られているのかを気にしないようにする、というのは難しいです。私自身、現在でもそのあたりはどうしても気になってしまうこともあります。
ですが、以前よりは気にすることは少ないのではないかと思ってます。


この記事が誰かの役に立てば私の今までの経験も無駄ではなくなるでしょう。
世間の常識にとらわれず、自分らしく生きていきたいですね。

それではここまでご閲覧ありがとうございます。

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